コキア並ぶ

国営ひたち海浜公園に行った。

普段は混雑が予想されるところにあえて向かうのはあまりしない主義だが、今日は特別。本日は無料で入場できる日らしく、入り口ゲートから入ると園内の道には行列ができていた。皆向かう方向は同じなのだ。前の人についてぞろぞろ歩く。急ぐ人は誰もいないし、家族連れや夫婦、友達、カップル、犬まで各々が幸せな時間を過ごしているように見えた。各々が幸せで公園全体が幸せの権化のようだった。こんな完璧な休日があるだろうか。秋の晴れた日曜日。

そしてコキア。ワイン色した丸い何かが地面にくっついている。生えているというよりくっついている。もし高い空から見下ろしたらウメ味のミンツが並んでいるように見えるかもしれない。こんな斜面なのに転がらずに行儀いいと思ったらコキアである。

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コキアが斜面から転がる時は音もなくころころ下ると思う。ふさふさころころして、誰かの足下にぶつかって止まる。歩けばころころ着いてきて、もしかしたら懐くんじゃないか、というくらいはどこか植物とは違った生き物感があった。海底に棲んでいる未発見の生物が並んでいるみたいに、見たことのない景色だった。

 

書き残すことへの執着

二年半前、母からコクヨのキャンパスノートをもらった。

色はピンクでありページ数は100に及ぶ。

私に日記を付けよ、ということであった。

そういえば、今まで二十数年生きてきて「文章で残すことは大切やで」と幾度言われてきたか知れない。思えば、父も母も文章で残すことにやたら執着がある性質のようで、「もしわしがあの時のことを文章で残していたら」とか「おかあちゃん死ぬまでに本を出せたら」とかよく言っていた。実家から離れて久しいが、多分今でも言っていると思う。

もし、自分の書いた文章が、後世まで残るとしたら、各々悔いのない人生を送れるのだろうか。私の両親の言葉からは、書いた文章を人様に読んでもらうことにより、自分の生きた証拠とでもいえる”何か”を残したい欲が感じられてしょうがない。

 

文章を継続して書けるのは才能だと思っている。継続という高いハードルを前に早くも心が折れそうである。現に、私のピンクのキャンパスノートは初めの10ページ程しか埋まっていない。

 

金太郎飴のような毎日でもたまには隣にクマがいたり、マサカリを担いでいたりするようなそんなささやかな日常を書き残す、という夢物語を始めようとしている。